レポート2:「元「生野学園」の記念碑が建立されました」を公開しました。

元「生野学園」の記念碑が建立されました

大阪市社会福祉協議会善意銀行の「大阪の社会福祉の歴史保存・伝承助成」事業の助成記念碑第一号に選ばれ、元婦人保護施設・生野学園跡・東桃谷幼児の園の門横に「生野学園」の記念碑が2012年12月建立されました。

くわしくはこちらをご覧ください(組織と活動/沿革)

ありがとう
大阪府立婦人保護施設 生野学園跡

1951年から46年間、生活上の困難を抱えた、行き場のない女性や子どもたち3958人が東桃谷幼児の園や地域住民との交流や支援(就労の場や内職の提供、銭湯や美容室の格安利用、商店での買物計算他)の中で、共に生き、巣立っていきました。

施設老朽化による現地建替運動を16年間続けましたが、大阪府下3婦人保護施設の統廃合により廃止されました。しかし住民などの支援により、1998年民間シェルター「女のかけこみ寺生野学園」として再出発しました。

戦後の混乱期に開始された事業は、利用者と住民の温かい心に培われ、今もなお灯をともし続けています。

貧困も暴力もない、平和な世界を願って

2012年12月

 

石碑建立にあたって

社会福祉法人大阪福祉事業財団・いくの学園理事 中上伸弘さん

この度、「生野学園」記念碑建立の式典に際しては、財団代表として参加をさせていただきました。ありがとうございました。婦人保護施設として半世紀にわたってその役割を果たしてきた「生野学園」を記念碑として残すのは、有意義なことだと思っています。

ただ、この施設の役割が終わったわけではなく、まだまだその役割を果たしていかなければならないこと、またその対象者も数多く存在する状況にあると思います。あたらしく「いくの学園」として、その歴史と事業を引き継ぐとともに、ますますの発展を祈念します。そして、多くの人たちの協力の輪が広がっていくことを願っています。

いくの学園の歴史と、私の思い出について触れたいと思います。
社会福祉法人大阪福祉事業財団が1966年6月1日に発行した冊子「福祉二〇年の歩み」では、「施設の現況」として、生野学園が以下のとおり掲載されていますので、紹介します。

「終戦直後、転落婦人の保護更生を目的とする厚生省通達婦人保護要綱に基づいて昭和21年11月、布施市に大阪府委託の財団法人成美寮(定員五〇)が開設されたが、25年8月同法人は内部事情により解散、大阪府の依頼を受け本財団はそのまま事業を承継、同年11月大阪市天王寺区大道二丁目大阪府引揚同胞援護会館内に暫定的施設を設け事業を開始、翌26年6月、旧大阪府協和会鶴橋隣保館を大阪府並びに本財団が買収改造し、当寮を現地に移転するとともに、名称を「生野学園」と改め、収容定員を80名に増加。32年4月売春防止法の施行に伴い同法による婦人保護施設となる。」「41年度予算:8,520,000円、取扱実人員:92、延人員:12,347人」

また、1993年5月発行の「四十年のあゆみ」で生野学園歴代施設長名簿が、以下の様に記載されています。

菊岡 昌平(1950.11~1955.7)
林 文雄(1955.7~1955.12兼)
金本 富美子(1955.12~1957.10)
林 文雄(1957.10~1958.1兼)
赤井 円明(1958.1~1968.5)
野海 源信(1968.6~1989.1)
林 功(1989.1~廃止まで)

 

年代が違うこともありますが、こんなに多くの施設長さんがおられたことを知ったのも、最近のことでした。私が直接お会いできたのは、野海源信さんと林功さんです。野海さんは退職された後、随分経ってからでした。林功さんは気軽に声をかけてくださったのをよく憶えています。

生野学園が廃止され、施設が解体されることになり、長年にわたる生野学園の諸資料などを整理するというので、現地にトラックで何回か駆けつけたのをついこの間のことのように思い出します。

充分お役に立てずにおりますが、精一杯がんばっていきたいと思っています。今後ともどうぞ、よろしくお願いします。


中上さんありがとうございました。

※この記事は会報誌「すたあと」65 号より一部加筆訂正を加えました。
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